The Bride
咎井 淳 / Narcissus
その人は「ジェシーと呼んで下さい」と言うと助手席に滑り込みドアを閉じると、私達の周りの世界を私の車のその小さな 空間に 閉じ込めた。
教えられた名前を丁寧に声に出すことで、舌の上でその名前の響きを味わいつつ、車をバックさせて人の気のない高速道路へと入った。太陽はすでに水平線の向こうに沈み始めていたが、その日のうだる様な暑さは依然としてアスファルト上で煮えたぎっていた。
「人に会えて本当に良かった」「僕は歩いていたので…」と彼は言うと、シルバーの携帯電話をポケットから取り出して見せた。「何時間も経ったように感じましたよ。持っている唯一の時間の分かるものですが、…充電が切れてしまって… 僕の車もその後止まってしまったんですけどもね。」
「どちらまで?」
聞いた事のない町の名前だったが、詳しい事は訊かなかった。
「一番近いガソリンスタンドまでどれくらいですか?なければ、少なくとも電話が使える所までは?」
「この辺りは寂れているから」と私は言った。「この道沿いはずっと谷だ。私の家からガソリンスタンドに電話したらいい。」
「あなたに…これ以上ご迷惑をおかけするわけには…」 声の調子が突然変わった。彼がただ遠慮しているだけなのか、それとも何か居心地の悪さを感じているのかは、私には分からなかった。「車に乗せてくださっただけで十分です」
「私の家はここから16キロ程の所だ」私は言った。「一番近いガソリンスタンドは50キロ先で、それにもう閉まっているよ。この辺にホテルはないし。人が景色を楽しむために足を止める様な場所じゃないからね。」
「そうですか」彼は言った。「じゃあ、あなたが本当によろしければ…」
私はポケットから財布を取り出すと、親指で弾いてポンと開け、持ちあげてみせた。「これで少し安心するかい?」
彼が見えるように自分の財布を手渡した。受け取った手は少し震えていたが、私は気づかない振りをした。間近に持って、バッジを見つめると「警官なんですか?」
「市から休暇で」私は言った。「父と兄を訪ねる為にここまでね。」
財布を閉じると、かわいい口元に微笑みを浮かべて彼は言った。「じゃあ、あなたがこのタイミングでご家族に会いに来られたって事は、僕は運がいいってことですね」
「私もね」