Prey
著: Suzume
訳: 冬斗亜紀
「あれが新入りですか?」
デビッドはコーヒーポットから顔を上げた。彼とリチャードがいるキッチンの入り口の向こう側を、一分の隙もないスーツをまとった黒髪が歩きすぎていくところだった。
記憶から名前を引っぱり出す──浅野克哉。ドクターだ。
「ああ」デビッドは、マグカップの中のどす黒い深淵へ大量の砂糖を投下する。「今日入ったばかりだ。州から派遣された精神科医」
「早速飢えた狼どもがお待ちかね、と」
リチャードがデビッドの肩ごしにつぶやく間、誘拐対策課の連中が笑いながらガヤガヤと話し声を立て、例の精神科医を 追うように隣の休憩室へ次々と入っていく。デビッドより年若い刑事のリチャードは、いつも長すぎるストロベリーブロンドの頭を角から突き出して、隣の部屋がうかがえないものかと試していた。
「あの医者、取って喰われちまいますよ」
「放っておけよ」
デビッドは答えた。親指に付いたコーヒーをなめてから、プラスチックのマドラーをゴミ箱へ放りこむ。新人いびりにいい気持ちはしなかったが、いびりが警察内で慣例となっているのにはそれなりの理由がある。警官たちは、逆境を切り抜ける 時にこそ、相手の真価が見えると思っているのだ。
リチャードは肩をそびやかすと、自分のソーダを取ろうとキッチンのカウンターへ向き直った。「いい男ですよね」
「気付いてくれて嬉しいよ、アナタのために選んだネクタイだから」
デビッドはぱちぱちと睫毛をはためかせてから、苦悶の表情になったリチャードに笑って踵を返そうとしたが、その 時休憩室から高らかに聞こえてきた粘着質の声に、気分も会話も粉々にされる。カーター・レインの声は聞き間違えようが ない。嫌味に母音を引きずって、常に声が少しばかりでかすぎる。あの男は自分の言葉に酔っているのだ。
「おやおや、こんなところに誰かいらっしゃるぜ?」
デビッドは顔をしかめた。彼とレインは同僚であり、二人ともに課のチーフだ──レインは誘拐対策課の、デビッドは 殺人課の。だが同輩だからと言って必ずしも友人になるわけではない。
「お前ら、どう思うよ?」レインが続けた。「俺はこのお医者さん、どこかで見かけた気がしてならないんだがな」
「裁判所でとか?」
誰かが応じた。答えを探そうとしているわけではない。レインにへつらっているだけだ。
リチャードはいたたまれなさそうだった。デビッド自身も我知らず眉を寄せている。どちらも立ち去ろうとはしなかった。 レインが新人いびりを好きでたまらないのは、百も承知だ。ただ彼は、レインが次に何を言い出すのか、待っていた。
レインはテーブルの表面を叩いたに違いない。鋭く、区切るような音がした。ここが山場だと言わんばかりに。
「わかったぞ。この間の人身売買についてのセミナーで、あんたを見たんだよ」その声には喜色があふれていた。 「ガキどものスライドを見たろ、あの中にあんたが写ってたよ。ケツにつっこまれすぎてすっかり内股になってたろ?」
部屋の中の全員が笑った。
「マジかよ──」
リチャードが動揺した様子で呻いた。
デビッドは首を振った。「何だ、」彼はひそひそと言い返す。「お前だって新人歓迎の時にヤジられたろ?」
若い刑事の頬が紅潮した。白い肌はたちまち赤くなり、そばかすが際立ちそうになる。
「いえ。俺の時は飛び降りそうなヤツがいるって通報があって、行ったら、あいつら救急のダミー人形を屋根から落っこと しやがったんですよ。こっちはマジで小便──」
デビッドが片手を上げると、やっとリチャードは言葉をとめた。
「何と言ったかな」レインの声が隣から聞こえる。「ほら、第二次世界大戦中の……」
くぐもった声が囁き交わされて、それからレインが笑った。
「そうそう、慰安婦? あんたの可愛いツラなら充分役に立つだろうなあ? ま、どうせ顔は見ちゃいねえか、あんたらは つっこめる穴があれば何でもいいんだろうしな。折角の顔をそんなところで無駄にするなんて勿体ないよなあ」
ドクターからは何の返事も聞こえてこなかった。
デビッドは指先で顎を掻き、噛んだ歯の間から息を吐き出した。レインのことがどれだけ気に入らなくとも、ここでは口を出さないのがルールだ。もしデビッドがしゃしゃり出れば、このドクターは自分の面倒も見られない奴だとして警官たちに 見下されるだけだ。
「這いつくばってケツをひっぱたかれたことがあるだろ、ドクター?」
レインの声はあからさまに愉しげで、嬉々として口からでまかせを言いたてながら医師を揺さぶろうとしていた。
「ほら、好きなんだろ? ネクタイで口をふさいでな。いや、そいつは昔のトラウマがよみがえっちまうか?」
部屋がどっと笑いに揺れた。反応を引き出したいだけなのだ。
足音に、デビッドが顔を上げると、キッチンの入り口をあのドクターが歩きすぎていくところだった。そこに 立っていただけなのに、まるで自分がのぞきでもしていたかのような、あるいは意図せず悪意の片棒を担いでしまったかの ような後ろめたさが沸く。
「あんたはスカートの方がお似合いだぜ!」
レインの声がドクターの背へ投げかけられる。休憩室の一群がまたどっと笑い声を立て、足を踏み出そうとしたリチャードの腕をデビッドは押さえた。
「どうするつもりだ」
デビッドは若者に低くたずねながら、カウンター側まで押し込んで、うかつな行動を牽制する。気に入ろうと入るまいと、新人いびりに対しては二人とも何の口出しも出来ないのだ。
「今押しかけてったところで、お前がつまはじきにされるだけだぞ。いいか?」
リチャードの肘を離し、デビッドは腕を下げた。
「仕事だ」出入り口を指でさし、一歩下がる。「とっとと。行け。ほら」
結局、デビッドは二つ目のマグにコーヒーを注ぐと、荒い手のひらにセラミックごしの熱を感じながらキッチンから出て、廊下を歩き出した。広いとは言えない署内だ。ここブルックリンでは空間は贅沢品である。警察署ですら例外なく。
受付のデスクに座るアベルにうなずいて挨拶し、二階へ続く階段をのぼりながら、片腰に手すりをくいこませて、スーツ姿の刑事や青い制服姿のパトロール警官をやりすごす。何もかもが手慣れたリズムで折り重なるように進む、このなめらかさが気に入っていた。この建物の中ですごしてもう十年近くになる。
二階には大きな窓があるが、常にブラインドが下がり、羽根が半分閉まっているので、時に得られるわずかな陽光も升目の天井にちらつくだけだ。すり減った床の上には個人のスペースがごたごたと立て込み、そこでは捜査資料と私物がせめぎ合っていた。課のはじの方、デビッドのオフィス近くには回転式のホワイトボードが立てられ、「殺人課最低ネクタイコレクション」の晒し台となっている。ずらっと留められた趣味の悪いネクタイは現在も増殖中だ。
部下たちの中の数人だけが在席していた。ロジャーズとマックファーデンが何やら互いの頭を寄せ合っており、モントーヤはテニスボールをくり返し壁に投げつけてはバウンドさせている。ファイルキャビネットの前にはベラニーがいた。
歩きすぎるデビッドを、リチャードがチラッと見上げた。
精神科医のオフィスは、殺人課と組織犯罪課の両方にまたがるように角に押し込められており、デビッドのオフィスとはほぼ逆に位置していた。部屋の入り口に立って見やると、すみに黒いブリーフケースがぽつんと置かれているだけで私物は 何一つなく、雑然とした周囲にくらべてこの部屋の虚ろさだけが際立っていた。せめて、観葉植物ぐらい置いておけばいいものを。
ひとつ首を振り、踵を返した瞬間、いつのまにか背後に立っていた人物にあやうくコーヒーを浴びせかけるところだった。相手の──ドクターの──素早い反射神経のおかげで、どうにか彼が折り目正しく着込んだスーツを台無しにするのだけは 避けられた。
「引越し祝いのつもりで持ってきたんだ」デビッドはぼそっと言い訳しながら、顔をしかめ、はね上がったコーヒーが 濡らした自分の靴を見下ろした。「殺人未遂なんかじゃない、信じてくれ」
「ところ変われば手口も変わるものですね」
浅野は興味深げに返し、その長い指でデビッドの手にふれることなく、コーヒーが満ちたマグカップを受け取った。 礼儀正しい微笑を浮かべている。
デビッドは喉の奥で笑って、首を振った。
「そんなに気の利いた真似じゃないさ、誓うよ」
相手の肩をかすかにかすめて、デビッドはオフィスに入ると自分のマグを置き、デスクの箱から山盛りのティッシュを くすねた。ズボンの裾を引き上げて身を屈め、靴先のしみを拭おうと虚しい努力を重ねる。
「紅茶の方がよかったか? そういうタイプに見えるが」
濡れたティッシュを手にデビッドが立ち上がると、浅野の角張った眼鏡の向こうで黒い眉がくいっと上がり、口元に本物 の微笑に近い何かが浮かんだ。
「タイプって何です──日本人だから?」
「へえ、日本人だって?」
ティッシュをゴミ箱に投げこむと、デビッドはあたりを見回したが、結局顔をしかめてスラックスで手のひらを拭いた。
「そりゃ気が付かなかったね」
ズボンから顔を上げると、小さなレンズの向こうからほぼ漆黒の瞳が冷徹なまなざしで彼を見つめていた。 プロファイルされている、と気付く。彼はニヤッと笑みを投げた。
「できれば握手するところなんだが、これじゃな──」
「ドクター・カツヤ・アサノ。紅茶よりもコーヒー派」
なめらかに告げた自分の名前以外の部分は、まるで訛りのない英語を話す。
「デビッド・クラウス、殺人課、俺も同じ派だ」低いファイルキャビネットの上に腰を落ち着けると、デビッドは足をのばし、踵を重ねた。忌々しい靴だ、コーヒーの 染みが残りそうだった。
一瞬、浅野はそこにたたずんでいたが、ひとつうなずくと、自分のデスクの前の椅子に座った。
「クラウス刑事。わざわざご挨拶どうも」
これはまた防御の固い男だ、とデビッドは思う。胸元できっちり締められたネクタイに、階下の一騒動にもかかわらず何 の苛立ちも見せないたたずまい。シャツにはぴしっと糊が利いていて、上着は着ているだけではなくボタンまですべて はめていた。
これも、一種の鎧なのか。
デビッド自身のシャツは肘までまくり上げられている。
「俺はほかの連中よりいいヤツだろ」そう言ってやる。「贈り物付きで来たしな」
「贈り物を貢ぐ男には用心せよ」
「格言好きだな」
浅野は二度目の微笑を見せた。
「言うだけの根拠もありますよ。今朝、ここのコーヒーは飲みましたからね。ひどいものだ」
そう言いつつ、彼はそれでもマグに口を付けた。社交上の仕種、というやつかもしれない。その微笑と同じように。
「我が署自慢の逸品でな」
デビッドはそう言って、話を変えた。
「あんたがスターク事件を解決したって聞いてるが」
話題が移った瞬間、ドクターの冷徹な表情がやわらぎ、黒髪が目の上にはらりとかかって、かすかにその唇がひらいた。 目の前の男が突如として見せた脆さに、デビッドの喉元が締めつけられる。あまりにも危険だ──無防備な瞬間が、これほど蠱惑的だというのは。
もしこの顔を見たのならば、レインが彼を狩ろうとするのも無理はない。
「そう言われてはいますが」
浅野が口を開いた。指先が、ほつれた髪を耳の後ろへすくい上げて整えながら、同時に表情も元通りに取り繕われる。
「幸運な機会を得ただけですよ。あの青年が、私には話をしてくれたので」
「そう謙遜したもんじゃないだろ、ほかの誰にも、彼の心は開けなかったんだからな」
デビッドはスターク事件について目を通したことがあった。浅野がその若い犠牲者についてのプロファイルをまかされた 途端、事態は一気に転がり始めたのだ。それはまるでこのドクターが、あの若者の心の中できつく絡まった糸のどこを引けばいいのかあらかじめ知っていたかのようだ──そして、すべての結び目がまるでひとりでにほどけていったかのようだった。
単に机上の勉強ができるというだけでは足りない。それ以上の、生まれ持った才能とでも言うべきもの。
浅野はふたたび微笑したが、その表情のほとんどはマグカップの後ろに隠れていた。コーヒーの湯気で一時的にレンズが 曇っている。
「誰でもおだてて回るんですか、クラウス刑事?」
重ねていた足をほどき、デビッドは両手にマグを包んで背を丸めた。
「俺は基本的に人は甘やかさないんだ。主義でね」
「私を例外にする理由が?」
デビッドは微笑した。
「まだあんたをよく知らないからさ」
署内では、賞賛など滅多に得られるものではない。ニューヨーク五区の中で最も評価の高いこの署であっても。
「あんたが報告書の上で見るのと同じぐらいデキる奴だとわかった時には、本物のコーヒーを飲めるところにつれてって やってもいいかな。俺の奢りだ」
「私のことは気にしないで下さい」
浅野がコーヒーを下ろしながら、そう言った。言葉はおだやかだったが、視線は揺るぎなくデビッドに向けられている。
「こういうところの流儀はよく知っていますから」
つまり、成行きはよく心得ているか、さもなければどこかで聞きかじってきたと言うことだ。 デビッドは右手を上げた。
「気を使ってるわけじゃないさ。いい仕事をした見返りってやつだ。同じじゃない」
浅野に干渉するつもりもなければ、面子をつぶしたり、プライドに傷をつけるつもりもない。
よっ、と立ち上がると、背骨がきしんだが、デビッドはドアへと向かう。浅野の目がじっと彼を追っていた。
入り口で立ちどまり、デビッドはドアフレームに片手をかける。にやりと笑いかけた。
「署へようこそ、ドク。地獄に比べりゃ素敵なところさ」
そして、まさに言葉通りの日となった。
例えば。
ドクターに対する嫌がらせにレインが仲間を引き入れたのは、たちまち明らかとなった。男達が丸一日、次々と浅野のオフィスに陣取っては、自分の病状を訴え出したのだ。デビッドも、セックス中毒だの早漏だのという訴えを漏れ聞いた。一度など、交通課の警官が「自分に毛ジラミを感染させたボストンレッドソックスのファンを指名手配してくれ」と大声で言い募っているところに、部下のモントーヤがテニスボールを投げつける瞬間を、デビッドはオフィスの窓ごしに目撃した。モントーヤはボストン出身である。
浅野はたじろぎもせず、その警官を「自分の専門外だから」と追い払った。
デビッドが仕事を片づけて帰り支度をする頃にも、その行列は長さを増しただけだった。初めて見るものというわけでもない──飢えた犬どもがとどめを刺しにかかっている。精神科医のオフィスに隣接している殺人課と組織犯罪課にとっては迷惑な話だったが、誰も文句をつけないのは、それがここでの流儀だからだ。
デビッドは行列のそばを通って外へ向かった。浅野は、レナートに向かって、母親についてどんな夢を見るにせよ、自分は精神科医であって縁結びは専門外だからお引き取り願う、と説いているところだった。ドクターの居ずまいには相変わらず乱れひとつなく、ネクタイはきっちりと締められて、髪は丁寧に整えられていた。
だが翌朝に見かけた時の彼は、いささか様子が違っていた。雪道を歩いて署に向かう浅野を、デビッドが目にした時には。
学校は雪で休校になっており、交通もまばらだった。この冬は、悪天候が数珠つなぎのように毎日延々とつらなっている。やわらかに、だが絶えることなくブルックリン中に降り注ぐ雪に抗って、デビッドの車のヒーターがうなりを上げていた。
最初は、とぼとぼと歩いていく人影が誰か見きわめられなかった。男は黒いトレンチコートの襟を立て、頭と肩には黒い傘が覆いかぶさっていたが、ブリーフケースに見覚えがあった。
デビッドは路肩に車を向けると、ブレーキを踏み、助手席側の窓を下ろした。
「乗ってくか?」
足取りがとまる。
白い雪の向こうから、双の目が冷たく彼を見返した。
「いいえ、結構」
そんな答えが返ってくるとは思いもしていなかったので、デビッドがやや茫然としているうちにも、浅野は署の方角へ、まだ遠い道のりを歩き続けていた。
頑固な野郎だ。
彼はアクセルを少し踏みこみ、医師の隣で車をゆっくり走らせた。雪のかけらが助手席側に舞い込んでくる。
「車の中があったかくってな」デビッドは話しかけた。低い声で。「ほら、そりゃエアコンのついた車はほかにもあるが、俺の車のエアコンはマジで当たりだった」
路面から目を離して、チラッと浅野に視線を向ける。相手は頑として前を向いたままだ。
「ちょっと暑すぎるぐらいでな?」
「じゃあそうやって窓を開けていると丁度いいでしょう」
デビッドは鼻を鳴らした。
「言うね、ドク」
片手をステアリングにのせたまま、体を助手席側に少し傾け、彼は窓の外をまっすぐに見た。
「あんたは頑固だよ」
浅野が一瞬、彼に視線を投げる。
「ついてきているのはそっちですよ。あなたも五十歩百歩というところだ」
「あんたが鼻クソで俺が目クソか。逆か?」
浅野の笑いは、当人の意志に反して唇からこぼれたかのように詰まったもので、雪の舗道でついに足をとめながらも、彼はまだ笑いをこらえようとしていた。デビッドは車を停める。冷たい空気が車内になだれこんでくるとともに、医師のほっそりした体が乗り込み、清潔な石鹸の香りがかすめる。頭を傾けてちらりとデビッドを見た浅野の頬には、濡れた髪がはりついていた。
「たのまれたから、聞くだけですよ」
と、ドアをバタンとしめる。
「ああ、署のドクターを凍死から救えば結果として書のお仕事を節約できるからな。これは純粋に、俺の利己的な動機からさ」
また例の押さえた笑い声がこぼれて、浅野は顔をそらすと、助手席側の窓をしめた。
「でしょうね。となると、車に乗ってあげた私は随分と親切ということになる」
「物凄く親切だよ、ドク」
デビッドは他の車を確認してから、白く染まった道に車を戻した。降る雪に追いつこうと、懸命な除雪作業が続いている。路肩に寄せられてゆるんだ雪にタイヤはいったん空滑りしてから、その下にあるアスファルトをとらえた。
「車なしですごすには、いい季節じゃないね」
浅野は、左右に踊るワイパーの向こうの道を見つめていた。
「車は持っていますよ。ただ、今朝は使えないだけで。歩くのに大した距離でもない」
その言葉に、デビッドはクスッと笑った。
「この雪で? 大した距離だよ。生まれつきのニューヨーカーは肌も分厚く出来てるがな、外から来た奴は用心した方がいい」
「私のことはよく知らないでしょう」
その言葉は、昨日デビッドが言った言葉をそのまま映したものだった。
デビッドは肩をすくめる。
「学んでる最中さ」
「どう?」
短くも懐疑的な一言。思わずデビッドがこぼした笑いは、閉ざされた車内に大きく響いた。
「どうって、コーヒーはブラックが好きだ。笑顔は人づきあいのために浮かべるんであって楽しいからじゃないが、その格好からして自意識は充分高いから、何もかも自覚した上での振舞いなんだろう」
浅野の視線は今やデビッドに据えられていた。デビッドは続ける。
「そして他人の干渉を嫌う──状況によっては命取りになるほどの独立心だ。凍死するんじゃないかと、俺が心配するのも不思議はないね」
車内に沈黙がたちこめ、デビッドはその向こうに無言の同意と──そしておそらくは、かすかな賞嘆を読み取る。
やがて浅野が口を開いた。
「あなたは随分と心配性のようだ、クラウス刑事」
「あんたはやたらと自分のことから話をそらすね。精神科医だからか、それともただ生まれ持った才能ってやつかな?」
今回、浅野がたてた笑い声はくつろいだもので、低く、やわらかだった。彼がかすかに見せた隙──そこから、デビッドは出会ってから初めて、冷徹な瞳と皺ひとつないシャツの向こうにいる血の通った人間の息づかいを感じる。
「単に、何も話すほどのことがないからかもしれませんよ」
浅野はそう、微笑を見せた。
「そうは思えんがな」
警察署が、半ブロック先の交差点の斜め向かいに見えてきたところだった。デビッドはウィンカーを出して路肩に車を寄せる。浅野は窓の外を眺めた。
「警察署にも駐車場が──」
「この後そっちに停めるよ」
デビッドはうなずく。浅野は淡々とした表情だったが、そこには本物の微笑のきざしが見えたとデビッドは思う──その顔を、車のドアを開ける動作に隠し、ドクターは凍える風の中に降りていった。
それから一瞬ためらい、彼は軽く身を戻した。
「ありがとう」
デビッドは、二本の指をそろえて額にふれ、礼儀正しい敬礼と微笑で応じた。まるでそれだけで、今朝のすべてが仕事の一環として片付くかのように。
車のドアがしまり、浅野は署に向かって残る道を歩き始めた。デビッドは車を道に戻した。
車が使えない、と言った浅野の言葉が、実のところ事実の一部でしかなかったことは、後から知れた。
デビッドはあくびをしながら、地下への階段を降りた。まったく、気の滅入る場所だ──勿論、それが狙いなのだろうが。留置場や取調室には窓ひとつなく、灰色のコンクリートで囲まれているだけだ。容疑者連中をうっかり元気づけるような陽光もささなければ、酔っ払い連中をとじこめたブタ箱の悪臭を外に洩らすような風もないというわけだ。
IDカードと証拠請求の用紙を、証拠保管庫の前にあるカウンターの事務員に向けてカウンターの下からすべらせる。デビッドは壁にもたれかかって待ちながら、腕を組み、シャツから肌まで染みてくる冷気を感じていた。廊下の向かいには、二人のパトロール警官がコーヒーを手に、警帽を脇に置いてベンチに座り、シフト休憩中の雑談を交わしている。
「マジで、そこであった話さ。近くにいる奴なら誰でもって指示が回ってきたんだよ」
デビッドは目をとじて、自分にもコーヒーがあればと願った。
「可哀想なヤツ」
相手の警官が笑う。
カウンターの反対側から、デビッドの肘のそばに金属の引き出しが押し出される。上には彼のIDと、請求した証拠品が入ったマニラ紙の袋が載っていた。
「少し待ってくれ」
デビッドは事務員にそう告げる。引き出しに背を向けると、廊下へ数歩踏み出した。
「容疑者についての話か?」
二人の警官は顔を上げた。
「いいえ」最初の男が答える。「上の階にいる新人ですよ」
「彼の車にタイヤロックを噛ませたのか?」
「ほかの署の連中ですけどね、車を押収したんです。夕べ、レインがあの地域一帯に緊急連絡を回して、近くにいた警官全員に命令したもんで」
「車を押収?」
浅野が、車を使えない理由をデビッドに詳しく説明しなかったのも無理はない──嘘をつこうとしなかった気骨は見上げたものだと思わないでもなかったが、とにかく事実は変わらない。タイヤロックなら外してくれと要求するだけですむが、押収された車を引き取るには金がかかる。その上、レインはほかの署の連中まで巻きこんだ。
「すいませんけど!」
証拠保管庫の事務員が怒鳴った。
「これ持ってって下さいよ!」
「どうも」
デビッドは二人の警官に礼を言うと、向き直って、IDカードと袋をつかんだ。口元をこすりながら、階段に向かう。
新人いびりにも暗黙の、そして不可侵のルールがある。だがレインはその境界で危うい橋を渡っているようだった。
悪戯の目的は、新人をからかいうためだけにあるのではなく、当人に予測不可能な事態をくぐり抜けさせて自覚をうながすためにある。うまく対処出来たなら、一目置かれる。屋根から救急のダミー人形を投げ落とされたリチャードには、皆と──いたずらを仕掛けた連中と──一緒になって笑い、絆を築くチャンスが与えられた。それが出来なければ、ただ当人が笑われるだけだ。
数時間の仕事、数杯分のコーヒーで、デビッドはどうにか諸々のことを頭のすみへ押しやった。片付けなければならないペーパーワークもあるし、行き詰まった捜査についてアドバイスをくれとリチャードが小うるさい。気をそらすには充分だった──昼過ぎ、レインが殺人課に姿を見せるまでは。
デビッドはリチャードのデスクから顔を上げ、手の鉛筆でファイルの表面を叩きながら、歩いていく男を注視した。レインは彼より年齢も身長も少し上だったが、デビッドがあくまで自業自得の相手にだけきつく当たるのに対して、レインは横柄に振る舞うこと自体を楽しんでいる。署内を横切ってドクターのオフィスへと向かうレインの傲慢な姿からも、それがにじみ出ていた。
ドクターのオフィスの窓ごしでは会話は聞き取れなかったが、どんな状況なのか見てとるのは簡単だ。レインが取った体勢──ドクターの椅子の背に右手をのせ、左手をデスクについて覆いかぶさるようにしている様子には、デビッドの忍耐も切れかかったが、何も出来ることはない。上に報告したところで騒ぎが大きくなるだけだし、ドクターもそれは望むまい。
レインがぼってりした手を浅野の肩に乗せた時、デビッドは立ち上がった。
リチャードが椅子でぴんと背をのばす。
「俺にはダメだって──」
「自分の言ったことぐらい覚えてる」
デビッドは、きしり出した。
精神科医のオフィスのドアが開き、レインが歩み出てくる、その後ろに浅野が従っていた。浅野の目がふっとデビッドをとらえたが、視線が合ったのはあまりにも刹那の、わずかな一瞬で、こっちを見ないでいてくれた方がましだったと思うほどの息苦しさだけがデビッドに残された。
鉛筆を二つにへし折ったデビッドの横で、リチャードがうなった。立ち去る二人を見送るリチャードの顔は敵意と猜疑心に満ちていて、デビッドは自分の顔に同じ表情が浮かんでいなければいいがと思う。
「一体どこへ行こうっていうんでしょうね」
「レインが好きなところだろうよ」
デビッドは首を振って、鉛筆の残骸をゴミ箱へ投げこんだ。
「自分の権力を振りかざしてるのさ、あいつは。仕事に戻るぞ」
──気にしないで下さい。
明らかにレインは浅野を毎日のお楽しみとして執着している──さもなければ、何かの見せしめにしようとしている。デビッドが何を言おうがあの男の偏見はひどくなるだけだ。放置が一番だった。
あのドクターなら、自分の面倒は自分で見られるだろう。
数時間後、モントーヤが褐色の液体がなみなみと注がれたお代わりのショットグラスを目の前に置いた時には、デビッドはその心配をほとんど忘れ去っていた。
ラッキーダックは署から二ブロックのところにあるバーで、薄暗く、天井は低く、黄色っぽい明かりがともって、署の警官たちの支払いという恵みと慈愛によって支えられている店だった。
今夜の店は混雑していて、悪天候から逃げこんだ警官たちでにぎわっていた。角に置かれたWurlitzer製の古いジュークボックスからはジョニー・キャッシュが流れている。
「乾杯」モントーヤが音頭を取る。「倒れるまで飲め!」
デビッドはベタつくカウンターの表面をグラスの底で叩いた。「アーメン」
ウイスキーは心地よく、喉を焼きながら体の中へ流れ落ち、じんわりと温まっていた腹にさらなる熱を足していく。
モントーヤは空にしたグラスを逆しまに置くと、口ひげを──見事に両側がはね上がった口ひげはあまりに昔からそこにあるので、デビッドすらその下の素顔を忘れかけている──引っ張り、呻いて、立ち上がった。
「小便行ってくる。後の守りは頼んだぞ」
デビッドは大仰に拳を胸に当てる。
「お前の席は死守するよ」
通りすぎざまのモントーヤにびしゃりと背中を叩かれて、あやうくカウンター側にぐらつくところだった。
「そこがお前の欠点さ、デイブ」歩き去りながらモントーヤが笑う。「いつでも本気だ」
仕事についた最初の日、デビッドはモントーヤ──当時は組んだばかりの相棒、後にはよき先輩となった男──に「デビッド」と呼んでくれ、と言った。モントーヤは彼の目をのぞきこみ、お前の希望なんか知ったこっちゃない、お前は正に「デイブ」という顔をしてるんだ、と答えた。
それからほぼ十年たち、デビッドが上司となった今でも、モントーヤはその愛称で彼を呼び続けている。
デビッドは笑いを吐き出し、ビールを飲みながら椅子に身を預けた。一人きりになると自然に耳に入ってくる隣のひそひそ声を耳から締め出そうとする。カウンターの上で空のグラスをもてあそんだ。
この店で、何人もの誕生日を祝ったし、誰かの死を悼みもした。このバーの内装の木には、ほぼ百年分もの警官たちの歴史が染みついているのだ。悲哀も喜びも。
「だって、あの人が課のチーフなんだぜ」
そう言い切った声は、聞き流せないほどに大きかった。
デビッドは、話し続ける男へ目を向ける。
「だから何だってやりたいようにできるってわけさ。こっちはクビを握られてんだ」
そこにいたのは、誘拐対策課のグレゴリーとペックで、どうやら二人ともに何杯かビールを流し込んだ後のようだった。デビッドが個人的に知る相手ではなく、ただ名前と顔を知っているだけの、別の課の人間だ。
問題なのは、その誘拐対策課のチーフがレインだということで──否応なく、デビッドの注意は二人に吸い寄せられる。
「でもな、あれは……」グレゴリーが首を振った。「あんなのは間違ってるだろ。それにな、あの人は精神科医だ、だろ? 俺らの仲間ってわけじゃないんだから、手出ししていい相手じゃないだろ」
察するに、近ごろのレインがやりすぎだと感じているのはデビッド一人ではないようだ。
立て、立って聞こえない席に移れ、と自分に言い聞かせる。何が起こっていようが、デビッドが鼻をつっこむ問題ではない。浅野のことは彼の問題ではない。
デビッドはグラスを持ち上げた。
「相手が誰だかなんてどうでもいいさ、たとえ法皇だろうが俺の知ったこっちゃないね」ペックがカウンターに向かってぶつぶつ言う。
「でもレインがあの時、服を直してやってたって、そんなわけがない──」
「うるせえ」
ペックはシッと警告の音を立て、頭を上げて周囲をうかがった。
デビッドは手の中のビールに視線を据え、自分の姿が黒いコートと肌色の人混みにまぎれているように祈った。
「いいか──」結局、ペックはさらに声を落として続ける。「そんなこたあどうでもいいんだ。たとえ彼が浅野のネクタイを直してたとしても、取ろうとしてたとしてもだ。たとえそれが署内だろうと現場だろうと、同じことだ──新入りは新入りだし、レインが俺らのボスなんだよ」
──だからセクハラに目をつぶったってことか、ペック? そうなのか?
口の中に感じる苦さは怒りであって、ビールの味などではなかった。
「ありゃ笑うところだろ」グレゴリーがしゃべっている。「浅野に相手にされなくてさ。それがさ、レインはすっかり頭に来てる。怒るなんて変だろ。だろ? 変だよな?」
ペックの方は一瞬、黙っていたが、それから口を開いた。
「ああ、」答える。「変だな」
それ以上聞いていたくなかった。デビッドは立ち上がり、財布を取り出す。
ペックはこの数年、はるかに悪質で底意地の悪い新人いびりに絡んできた筈だ。その彼までもがレインは一線を越えていると同意した──その事実の方が、会話の内容そのものよりはるかに不気味だった。
「おい」
戻ってきたモントーヤが、財布から札を引っぱり出しているデビッドに目をとめた。
「もう帰るのか? もしかして事件か何か──」
デビッドはその質問を手で払い、金をカウンターに置く。
「何でもないよ。ただ疲れる一日だったからな。また明日会おう」
モントーヤは納得できない様子だったが、それでもうなずいた。店のドアに向かう間ずっと、デビッドは背中を追ってくる友人の視線を感じる。根本的に嗅覚のいいモントーヤは、追いかけてこようとはしなかった。それだけ長い間、お互いを知っているということだろう。デビッドがいい飲み相手になりそうもない、そんな時をきっちりと嗅ぎ分けている。
ドアの開閉に押しやられた雪は固く締まり、靴底で割れるような音を立てた。空気はしんと肺に染みるほど冷たい。道端にたたずみ、数瞬、デビッドは街灯の輪の下で一陣の風が巻き上げた雪がオレンジ色に染まるのを眺めていたが、天を仰ぎ、目をとじた。
レインは引き下がらないだろう。だがデビッドもこのまま手をこまねいて、浅野が自分のプライドの高さゆえに──あるいは、レインのような男と真正面から対決するべきだという古くさい根性論ゆえに──傷つくのを見ているつもりはなかった。
いざ心を決めると、ひんやりとした落ちつきに満たされて、雪の積もった街並みを二ブロック歩いて戻りながら、デビッドはポケットにゆるく手をつっこみ、視線を前に据えていた。署の受付に座る内勤係が片手を上げて挨拶してきたのも、紺の制服姿の警官たちがパトロールの夜シフトにそなえて集まって来ているのも、ほとんど目に入らなかった。
デビッドは一段とばしに階段を駆け登ると、最後の数段で足をゆるめ、時計を確かめた。誘拐対策課に残っているのは二人の男だけで、どちらも奥のオフィスまで突っ切っていくデビッドに顔も上げなかった。
オフィスのドアが叩きつけられるようにしまり、窓のブラインドが揺れると、レインが顔を上げた。
「話がある」
デビッドが切り出すと、レインは背もたれにもたれかかった。この時間になってもダークブロンドの髪は丁寧になで付けられているが、その一方で、外したネクタイがパソコンのディスプレイからだらりと垂れ、椅子の背にかけられた上着はくたびれて見えた。
「何だ、ケツにTバッグでも食い込んでるのか、クラウス?」
デスクのこちら側に二つ椅子が置いてあったが、デビッドはどちらも無視して、椅子の間に立つと机に手を置き、身をのり出した。
「黙って聞け」
レインは口を開けようとしたが、デビッドはかぶせるように続けた。
「よくわかってる、貴様にとって、血の通った人間らしく振る舞うのが不可能に近いってことはな。だがお前もいい加減、目を覚ませ。この署内にいる人間はお前の同僚なんだ。そろそろちょっとばかり敬意を払ってもいい頃だろう」
デスクの向こう側で、レインは笑い声をこぼし、腕組みした。
「ご立派な演説だな。だが、何の話だ?」
「わからんわけないだろ。あの医者はもう放っておけ」
それ以上細かく糾弾するわけにはいかなかった。ペックとグレゴリーを晒し台にのせるような真似は出来ない。
レインが片眉を上げる。その濃い顔立ちをかすめた表情の狡猾さが、デビッドには気に入らなかった。
「誰かさんが突如として日本食に目覚めたってか? お前にしちゃ意外だねえ」
せせら笑って、レインは前に身を乗り出す。
「いちいち騒ぎ立てることじゃねえだろよ、クラウス」
デビッドは背すじをぴんとのばした。
「騒ぎを起こしているのは貴様の方だ。お前の根性は腐ってる。昔からそうだ。俺の意見に賛成する奴がいないと思うか?」
遠回しな、それは警告だった。
「いたとしても、自分のクビをかけるほどの奴はいないさ。そこまでお前は好かれちゃいねえ」
「お互い様だろ。俺とお前のどっちが有利だと思ってるんだ? 職務中の、しかも別の署の人間を使っての新人いびりとか」デビッドは声を低めた。「犯罪現場でのセクハラ行為とか?」
レインが顔色を失って、沈黙したまま、角張った顎だけが動いた。
やがて、うなるように問いかけてくる。
「あの男のために危ない橋を渡ろうってのか」
「お前も言ったろ」デビッドは肩をすくめる。「俺がどうなろうと、誰も気にしない。そこまで好かれちゃいないからな」
その言葉を最後に、彼は立ち去った。
帰り際に、受付の警官に挨拶の手を振る。ここで片がついてくれればと願っていた──この脅しが効けばいいと。レインは行儀よく振る舞い、浅野は誰かが──理由は何であれ──口出ししたことを知らずに終わる。
三十分後、レインに吐き出した怒りと昂揚のおかげで、眠りはたやすく訪れた。もしかしたら夢の中には黒い瞳が出てきたかもしれなない。だが朝早く、暁のどんよりした光の中で鳴り響いた携帯電話はしつこく回線の向こうから彼を呼びつけて、夢は粉々にされた。
デビッドはナイトスタンドを手で探り、枕から頭も上げず、片目でディスプレイの番号を確かめた。すっかり潰れた枕のおかげで、その体勢のままでも耳に携帯を当てられる。
「クラウスだ」
その一言で答えた瞬間から、生活のすべてを押し流す怒濤の一週間が始まったのだった。
続く四日間は、その朝、目の前に転がり込んできた事件にかかりきりになるあまり、一杯ひっかける暇はおろかレインのことを考える余裕もなかった。それどころか、シャワーの半分は署のロッカールームですませる始末だ。
日曜の夜には物事の道筋もつき始め、部下と机を囲んで事件の細部をじっくり検討するだけの余裕がやっと出てきたが、すでにその頃のデビッドには自分の服がよれよれだとか、ここ数日は中華のテイクアウトしか食べてないとか、そんなことはもう何もかもどうでもよくなっていた。
わかっているのは、自分が中華料理に飽き飽きしていることと、すっかり疲れ切っていることだけだ。全員がそうだった。
「もークタクタですよ」
リチャードがそうこぼしながら、皆が囲んでいる大きなテーブルに頭からつっぷした。すっかりテーブルの上に居座ってしまったコーヒーマグとテイクアウトの紙箱の群れがカタカタと揺らぐ。
テイクアウトの匂いを嗅ぐと、もはや頭痛がしてくる。デビッドは立ち上がってリチャードの背中をポンと叩くと、窓を開けに歩み寄った。
閉じていたブラインドの向こうには、闇が広がっていた。デビッドは奥の壁いっぱいに張り出した窓桟に腰を下ろした。そこなら入ってくる風に当たれる。
モントーヤがあくびをしながら椅子にもたれかかり、短い髪の間をぼりぼりと指でかいた。
「鑑識がキャビンのカップに発見した青酸の痕跡だがな、あれだけじゃ無意味だ」彼は、さっきから頭に居座っている考えをたどって続ける。「検死なしじゃ死因が何だったか証明出来ない。しかもあのイカレ野郎が協力してくれない限り検死なんざ到底ムリだ。何せあいつが正気の世界に戻ってきて死体のありかを吐かない限り、まず死体を発見出来ないだろうからな」
「希望的観測とは言えんな」
デビッドは呟きながら、大きな窓にはさまれた壁に背をもたせかけた。一体何がひとりの男を──それもひとりの警官を──実の父親への誘拐と殺人という凶行に駆り立てたのか、彼にはわからない。だが解き明かすつもりでいた。
リチャードが呻きながら上体を起こす。テーブルに当たった額が赤くなっていた。それを擦りながら、
「あそこにゃ何もありませんよ。あいつがどこに死体を隠したか手がかりがないかと思って、キャビンはしらみつぶしに調べました。犯行時間前後の携帯の通話記録も真っ白」
「ドクター浅野に聞いてみましたか?」
そう言ったのはロジャーズで、モントーヤの隣に座って指の間でペンを回しながら、写真と日付で事件の大まかなタイムラインを構成しているコルクボードからデビッドへ視線を移した。
「何か、あの人にわかることでもあれば……」
「ドクターは、容疑者の精神鑑定を済ませるまで、何もこっちに洩らせんよ。わかってんだろ」
デビッドは前に上体を傾けると、太腿に肘を付き、膝の間で両手の指を組んだ。いい部下たちだしデビッドは彼らを信頼していたが、一方で、正当な捜査だと認められるためには法的な手順をきっちり踏まねばならないのだ。時には、ただ次の手を待つしかない。
「その鑑定じゃ、どうせあいつがイカれてるって出るんだろ」モントーヤは合いの手のように指先でテーブルをはじいた。「お前が権利を読み上げるヒマもなくあいつはすっかりハジケちまったじゃねえか、デイブ」
たしかに今回の容疑者は、とても裁判を受けられるような精神状態には見えなかった。木曜の朝にデビッドが駆けつけた時には、彼はわめきたて、支離滅裂で、しかも状態は悪化の一方だった。
「あの男を誰かが理解出来るとすれば、あのドクター以外にいないだろうな」デビッドは答えた。「明日になれば何か新しいネタが出るかもしれん」
今回の事件の鑑定には、三人の精神科医が割り当てられていた。もしかしたら浅野にならば、こみ入った結び目をほどく魔法の糸口が見つけ出せるかもしれない。
ロジャーズが溜息を吐き出した。「さもなきゃ今まで通り、手持ちのネタで頑張るしかないか」
デビッドの直感は、このパズルには何かのピースが欠けていて、今のままでは解けないと告げていた。すべてを解く鍵はそこのコルクボードの上にもなければ、殺害が行われたと見られるあのキャビンの中にもない。その鍵は今、ベルビュー精神病院の中で、ベッドに拘束されている。
デビッドは鼻梁を指でつまんだ。手のひらで顔をこする。
「マスコミは記者発表だけじゃおさまらんだろうな」モントーヤは上体を起こして、冷めきった蒸し団子に手をのばした。つまんだ団子を、何かを示すように動かす。「俺らにも嵐が直撃してくるぜ。ハゲタカどもは目を皿のようにして事件をつつき回すだろうし、タブロイドは大はしゃぎで警察のアラ探しにかかるだろ」
「父親殺しの警官ってのは、アラじゃすまんでしょ」
ロジャーズがそう言う。モントーヤは蒸し団子でロジャーズをびしっと指してから、口に放りこんだ。
リチャードが何か言いかけた瞬間、ドアが叩きつけられるように開いて、レインがずかずかと入ってきた。室内に沈黙が落ちる。ここは彼のいるべき場所ではないのだが、そんなことにはおかまいなしに、レインが自分の意見をひけらかそうと乱入してきたのは明らかだった。
「あったまるのに丁度いいねえ」モントーヤが呟く。「ほら、湯気立ってる」
レインは彼を無視し、視線をデビッドに据えて言った。
「まさかと思うが、お前は規則だからってあのカスを逃がすつもりじゃねえだろうな」
嘲笑の声だった。
デビッドはことさらに背すじをまっすぐのばしたが、椅子から立ち上がりはしなかった。彼は両手を広げる。
「まさかと思うが、お前は精神を病んでる人間を裁判の場に引っ張り出すのが最良の策だと言いたいんじゃないだろうな?」
リチャード、モントーヤ、ロジャーズたちの顔には捜査会議への乱入者──それが自分の上役であっても──に対して、おのおの異なる反発の表情が浮かんでいた。
「一体どうした、レイン? 今日の誘拐対策課はよっぽどヒマなのか?」
「こいつは誘拐対策課が扱うべき事件なんだよ、クソったれ!」
レインは歯を剥き出すと、コルクボードを手のひらで強く殴り付ける。ボードに貼られていた現場写真がひらひらと床へ落ちた。
「あの人でなし野郎はまず父親を誘拐してる──殺しは、その後だ。もし貴様があいつを送検しないってなら俺のところへよこせ! 代わりにやってやる」
「そうはいかない」
レインは、デビッドにずかずかと詰め寄ってきた。デビッドは歯をぐっと噛んで椅子から動かずに、テーブルの向こう側で腰を上げかけたモントーヤを、片手で制した。
「あの男は警察官だ」とレインが吐き出す。「あいつの存在は、俺たち全員にとっての問題なんだよ。俺たちはあらゆる手段を使ってあいつを吊るし上げなきゃならん」
彼は体を傾け、デビッドの頭の横の壁に右手を付いた。
「それとも何だ……こいつもまたお前の ”善きサマリア人ごっこ” の一環ってわけか?」
あまりにも近くに迫られて、さすがにデビッドもせり上がる怒りを抑えきれなかった。
「その口で、よく言えたもんだな」吐き捨てた彼の声は低く、二人にしか聞こえない。「今さら熱心に警察を守ろうって言うのか? てめえ自身がろくな警官じゃねえってのは棚に上げて?」
レインの唇がめくれ上がったが、彼が何か言い返す前にリチャードが口をはさんだ。
「捜査は、正当な手順で行わないと」上ずっていたが、断固とした声だった。「でないと全部台無しになる」
デビッドはほうっと息を吐き出した。ガキのくせに、いい呼吸で入ってきたものだ。レインの集中も崩れ、彼は下がって手をおろすと、赤毛の若者へ向き直った。
「名前は?」
「リチャードです、サー」
「リチャード、貴様はその口をとじて黙ってろ」
もう充分だった。デビッドはここで立ち上がる。
「部屋から出ていけ」
声は低かった。レインは好きなように好きなことを抜かせばいい。だが、デビッドの部下にまでそんな口を叩くのを許すわけにはいかない。
「さもなけりゃ下から誰か呼んで追い出してもらうぞ」
「ケツまくって出てくか、さもなきゃ牢屋に放りこまれるか」
ありがたくもモントーヤが合いの手を入れてくれる。
レインの首すじを、憤怒が赤く這いのぼってきた。
「そんな口を叩いていられるのも──」
その目がドアの方へ動き、言葉が途切れた。続いて落ちた静寂の中、デビッドもレインの視線を追う。
オフィスのひとつから出てきた浅野が、歩きながら読もうと、ファイルを開いていた。
「好きにやればいいさ、クラウス」そう切り上げようとするレインの声には、これまでとは別の、危険なやわらかさがあった。「お前が役に立たなきゃ、役に立つヤツを見付けるだけだ」
そしてレインは廊下へ向かう。
「浅野!」
後を追ったデビッドは、レインに名を呼ばれたドクターのダークスーツに包まれた肩が、かすかにこわばったのを見た。浅野は返事をせず、頭をめぐらせて状況を見てとる。その警戒も当然だし、もしデビッドが彼の立場であっても決していい気持ちはしない状況には違いなかったが、聞こえなかった振りをするにはもはや手遅れだった。
「お前なら、あの犯人が裁判にかけられるよう口添えできるだろ」
レインがそう続けた。それは質問のようには響かなかったし、始めからそんなつもりもないのだろう。
モントーヤがデビッドの横を通って廊下へ出ようとしたが、デビッドは肩に置いた手で年上の男をとめた。
ドクターは手にしていたマニラ紙のフォルダーをとじると、指で眼鏡をまっすぐに直した。
「現在のところ、どちらと断定できるだけのデータは持ち合わせていません」
「でたらめ言うな」レインは吐き捨て、無遠慮につめ寄った。「もう三度も面会した筈だろ、お前は全体像をはっきりと掴んでる筈だ。だがな、そんなもんはどうでもいいんだよ。あの男は警察官なんだ。お前には理解出来ないかもしれないが──」
「警察組織の中に根付いた、閉鎖的で排他的なメンタリティが?」浅野が切り返した。「それとも、汚れた烙印を押された者を追放することによって相対的に自らの潔白を誇示しようとする衝動が?」
デビッドの横で、モントーヤが笑いを喉に詰まらせた。デビッド自身も思わず感心していた。
「それなら、充分理解出来ていると思いますよ」
と、浅野は淡々と結ぶ。
レインの顔が毒々しい朱に染まっていた。
「貴様は……」
きしり出すように言う。さらなる言葉を出すのに、数秒かかった。ドクターの胸元に指をぐいと押しつける。
「もし俺が貴様にこの件をぶち壊しにさせとくと思ってるなら、大間違いだ。お前なんかここじゃ虫ケラと同じだ。俺の言う通りにしないつもりなら──」
「レイン?」
「何だ!?」
吠えて、彼はデビッドに勢いよく向き直った。デビッドはただ親指で肩ごしに指し示し、そして会議室の中では壁の電話のそばで合図を待つロジャーズが、受話器を耳に、指を内線の短縮ダイヤルにのせて立っていた。
レインの憤怒の表情はこれまで見たことがないほどのもので、正直、デビッドは爽快だった。もっとも、この瞬間の鮮やかな満足感と、部下たちへの愛情の下には、不安もひそんでいる。ここまで追いつめられて、レインがおとなしく引き下がったままでいるわけがない。
「そう慌てることもないだろう、ロジャーズ」デビッドはレインを見た。「勿論、自分の部署にはお一人で帰れるでしょうな?」
「貴様に言っとくぞ」
レインはデビッドに向けて凄んだ。
「よく聞いとけ、クラウス。あの犯人は俺が引きずり落としてやる。お前が協力しようがしまいがな」
それから浅野に向き直る。
「自分が何をしようとしてるのか、やる前にしっかり考え直せ。それが身のためだ、ドクター」
言い捨てると、レインは肩で風を切って大股に去っていった。
「何てカスだ」
リチャードが呟く。
デビッドはその言葉を流した。浅野の方を見やると医者も彼を見ていたが、そのまなざしは落ちついていた。リチャードとモントーヤは部屋の中へ引っ込み、ロジャーズも含めた三人の会話が低いざわめきのように流れてくる。
「帰るなら送ろうか?」
問いかけが、二人の間にわだかまった。デビッドはてっきり断られるだろうと予期していた。
ドクターがうなずく。
「ありがとう。朝まで待たなくていいのなら」
デビッドは首を振った。
「いや、今日はもう終わりにする。一晩ぐっすり寝た方が、ここで壁に行き詰まっているよりいいだろうしな。上着を取ってくるから、十分後に、下で」
リチャードもモントーヤもロジャーズも、帰っていいと言い渡されて心底嬉しそうだった。受付の前で待っていた浅野が、デビッドの横にすっと並び、二人は肩を並べて外へ出た。
事件の存在が、二人の間にはっきりとうずくまっている。デビッドは、容疑者の状態について浅野を問いただすような馬鹿な真似はしなかったし、浅野の方も事件に対する自分の見解を述べるような真似はしなかった。そして二人とも、ついさっきのレインの一件を持ち出すような真似もしなかった。二人は沈黙のままに車に乗りこみ、デビッドが浅野に家の方角をたずねただけだった。
浅野は助手席のシートにもたれかかり、数ブロック走らせたところでデビッドが見やると、彼は膝の上で両手を組んで、眠りに落ちていた。その目の下には睫毛の影や眼鏡では隠しきれないうっすらとしたくまがある。
車に乗った時の浅野はいかにもプロフェッショナル然としていたし、冷静に落ち着き払った振る舞いを見せていたが、次々と通りすぎていく街灯の光の中で、今の彼は若く、脆そうに見えた。もしこれが普段は覆い隠している素顔なのだとしたら、あの職場での日々を切り抜けていくその強靭さと精神力に、デビッドは驚くほかはない。
車内の静寂の中で、浅野は規則正しい寝息をたて、デビッドは信頼されていると感じる。存在を意識されることもなく、そばにいることを許されて。数日間溜まった緊張がデビッドから溶け出していくような、それは平穏な時間だった。アパートに付くまでの間、デビッドはこのささやかで小さな世界の中心であり、隣にいる連れを守るのが彼の役目だ──車内にワイパーの低い囁きが響くだけの、ほかのことは何も存在しない一瞬だった。
目的のアパートは小さく、一ブロック分に渡って建物がこぢんまりと寄り集まっている中に、どうにか入居者用の狭い駐車スペースを確保していた。浅野が身じろぎし、空いているスペースに車を停めるデビッドの横で身を起こす。
隣の座席から投げかけられたまなざしは、デビッドが初めて見るほど無防備なものだった。
デビッドは、まるで目の前の男が壊れた花瓶であるかのような──粉々に砕けたかけらをもう一度元通りにつぎあわせたかのような、そんな印象を受ける。ひび割れはいつもそこに存在している、そんなふうに。
浅野がシートベルトのバックルを外し、その一瞬はかき消えてしまった。ただの錯覚だったのだろうか。
「送ってくれてありがとう」
浅野の声はかすれを帯びていて、彼は喉を払うと、手を上げて指先で眼鏡の下をこすった。
「それと、さっき容疑者を守ってくれていたことにも礼を言います」
自分を守ってくれたことに対しても?──いや、デビッドには礼にそこまで含まれているとは感じられなかった。
「かまわん、仕事だ」
デビッドの返事は、あくまでも真実の中心であって、真実すべてを含むものではなかった。
「一度、自分の目で彼を、ガブリエルを見に行った方がいいですよ」
乾き始めたガラスをワイパーが呻くように擦り、デビッドはワイパーをとめた。「行った方がいいか?」
浅野はうなずいた。
「あなたは正しい判断をした、精神鑑定を要求したのは正しかった。彼はますます悪化している」
「へえ、あれ以上は想像がつかんがな」
「忙しいのはよくわかっていますが、あなたは彼のために戦っている。あなたが最初彼に下した評価は正確なものだった」
デビッドは一瞬浅野を見つめてから、首を振った。
「あいつのために戦っているわけじゃないさ。俺は、正しいことのために戦ってるんだ」彼はドクターの目をのぞきこんだ。「もしあいつが正気に戻るようなことがあれば、俺はあいつを長いことぶちこんでやるために全力で戦うだろうよ」
浅野はデビッドの凝視にたじろぎもしなかった。
「それは理解出来ます」
「俺が警官をやってるのは、何も銃をぶら下げるのが好きだからってわけじゃない」デビッドは続けた。「俺が警官をやってるのは、法のシステムってものは、中で働く人間が真剣に支えてやればきちんと機能すると本気で信じているからだ。それが俺たちの役目だからだ」
車のドアを開けて夜の中に出ていく浅野を、頭上から丸い街灯が照らした。
「いいものでしょうね」と彼は呟く。「もしすべての警察官があなたと同じように考えたなら」
「俺は簡単にあきらめる性格じゃないんでな」
浅野は静かに息を吐き出し、足下に置いておいたブリーフケースへ手をのばした。
「それは疑いませんよ、クラウス刑事」
「なあ、俺のことはデビッドと呼んでくれてかまわんぜ」
そう言いながらデビッドは浅野を見やる。だが、相手の唇にともった笑みにどんな含みがあるのかは読み取れなかった。
「お互い職務上の立場を忘れずにいた方がいいと思いますよ。そうじゃありませんか?」
デビッドは笑った。その笑いは、仕事と心労に費やした数日間の後で、喉に奇妙に響いた。
「おおせのままに、ドク」
浅野の微笑がかすかに変化し、少しだけ本物の笑みに近づくと、彼は車から歩み出て後ろ手にドアを閉めた。デビッドを暗闇に残して。
そして、浅野の言葉は正しかった。
翌日には公式な書類が回ってきて、浅野を含む三人の精神科医が、容疑者は裁判に適さない精神状態だという判断を下していた。容疑者の精神状態が劇的に改善されない限り、彼を裁判で罪に問うことは出来ない。
長い一日を追えてベルビュー精神病院の一室に立ち、隣室のベッドに拘束された痩せこけた黒髪の男を見つめて、デビッドもついに理解した。
ガブリエルは静かだった──鎮静剤を投与されているのではなく、ほぼ昏睡状態に近い。落ちくぼんだ皮膚のせいで頬骨が鋭く見えた。腕につながれた一本の点滴の管だけが彼を生かしている。
そこには、裁判で裁けるものなど何もなかった。ただ、若さゆえに死ぬこともできずに呼吸を続ける肉体が横たわっているだけだった。
デビッドはその顔を記憶の中に見つけ出そうと、もしかしたら制服を着た姿でもと思い返そうとしたが、一度たりとも彼らが顔を合わせたことがあるとは思えなかった。
昨夜、あのドクターに言ったことは本気だ。可能であれば、この容疑者を法の元で裁きたい。だがこんなのは違う、こんな抜け殻のような男は。何故こんな? 最後にデビッドが見た彼は活力に満ちて健康体で、ガードが二人がかりで抑え込むのにも手こずるほどだったのだ。
精神科医たちの報告書とデビッド自身がつかんでいる情報を重ね合わせると、その奥からは、父親と疎遠な若者の姿がぼんやりと浮かび上がってくる。理想の父親像への行きすぎた執着も。
このガブリエルにとって、それが、愛だったのだろうか?
人にとって、愛の形とは……
デビッドの電話が鳴り、同時にポケットにくぐもる振動が彼を現実に引き戻した。人は誰もが犬を飼うべきなのかもしれない。
「クラウスだ」
ガラスの壁に背を向けたが、電話の向こうからは息づかいしか聞こえてこず、耳から離して相手の番号をチェックした。だが、見た瞬間、病院の壁のうそ寒い白さとは無関係の寒気が、デビッドの腹の底を走った。
「リチャードか? おい、J. R、何があった?」
かすれた悪態が聞こえた。
「すいません」
リチャードが言う。
「俺──」
ドサッと音がして、それから息を吐く音。
「レインが」
その名前だけで、デビッドの腹の底全体を凍りつかせるに充分だった。
デビッドはすぐに病室の外へ出ると、廊下を進んでいた。走るというほどではない足取りで、看護師たちの間を抜けていく。
「レインが……駐車場にいて。あいつ、ドクター浅野を後ろ手にねじりあげて、ブロック塀に押しつけてたんです。それで……それで、ドクターのズボンを下げようと」
リチャードは鋭く息を吸い込み、くそっ、痛え、と自分に呟いてから先を続けた。
「多分その、寸前だったと思うんですが──」
「もうわかった」
レイプ。実行に至れなかったとしても、意図は明らかだ。
デビッドは肩で病院のドアを開け、夜の中へとび出した。今週で初めて今日は雪がふらず、昨夜の短い雨のおかげもあって、やっと雪解けのきざしが出てきていた。
彼は駐車場を走る。
「それで?」
「俺はレインに飛びかかりましたよ、サー」リチャードのたてた笑い声はくたびれきっていて、少し神経質にとがっていた。「ほかにどうしたらいいのかわからなくって。かなう相手じゃなかったけど、どうにかドクターが逃げ出すだけの時間は稼げた」
「まったく、お前ってヤツは」
今はまだ、この若者を誇りに思う余裕もなかった。後だ。車に乗りこんでドアを閉め、デビッドは受話器を逆の耳に持ちかえてイグニッションキーを差し込んだ。
「レインはまだいるのか?」
「手を離したら、一発殴られまして、それからレインは自分の車で出ていきました。俺……どうすればいいですか」
デビッドは勢いよく車を駐車スペースから出した。浅野は自宅に向かったに違いない。警察への通報は論外、となれば、どこか鍵のかかるドアの向こうに逃げ込むのが一番利口と言うものだ。
「どこも折れてないか?」
「多分」
「それならもう帰れ。レインの方は俺が片付ける」
デビッドは切った電話を空の助手席に放りこみ、そのまま病院の駐車場の出口を、濡れたタイヤでターンして常識外れのスピードで走り抜けた。サイレンを鳴らしたい衝動を抑え、ここから浅野の家までの間に巡回パトロールに出くわさないことを祈る。
レインはついに一線を越えたのだ。
──レイプだと?
デビッドはハンドルに手のひらを叩きつける。あの男のやり口が汚いことは重々承知の上だったし、何を利用しても自分の思惑を通そうとする奴だということもよく知っていたが、それにしても、ここまでとは。
デビッドの中には、あのカスを法の元に引きずり出して正義を通したいと思う部分もある──だが、その正義は、今回ばかりは阻まれるだろう。役所の事なかれ主義の壁は、あまりに分厚い。
今こそ、実力行使が必要な時だった。
浅野のアパートの駐車場は静まり返っていた。デビッドは街灯のない奥の角を見付け、そこに車を停める。レインの姿はなかったが、彼が去った後なのか、まだ来ていないのかははかりかねた。
デビッドが車から出てドアを閉めたその時、通りの向こうにポリスカーの点滅灯が反射しているのが見えた。寒さに白い息で悪態をついてデビッドが身を屈めた次の瞬間、駐車場をヘッドライトがさっとよぎる。
充分、準備する時間はあった。
レインの車のドアが開いた瞬間、待ちかまえていたデビッドは両手で相手の襟元を引っつかむと、レインの体重を利用して隣に停まっている車へ頭から叩きつけてやった。ゴン、と金属に激突する音と共に苦痛の吠え声が上がり、レインが汚い雪のぬかるみにうずくまった。レインの車がドア開放の警告チャイムを鳴らし始める。デビッドは乱暴にドアを閉じながら、レインの胸元を蹴りつけた。こめられた力に、レインが呻く。
「二度と彼に手を出してみろ」デビッドは脅しながら、上からのしかかった。「彼だけじゃない、ほかの誰だろうと、次また手を出してみろ。神に誓って、二度とその手を動かせないようにしてやる」
デビッドは一歩下がった。充分だといいが、と思いながらも、確信は出来ずにいた。
レインは片手を地面について、どうにか体を起こしている。ハアハアと、浅い息が冷たい夜気に白く散った。シャツの裾はほとんどがスラックスの外にはみ出していて、シャツは冷たく汚れた水に濡れそぼり、ネクタイも水を吸ってだらりと重く垂れ下がっていた。
立ち上がるや否や、レインは前に突進してきた。だが車への激突でまだ朦朧としているのか、その動きはもっさりとしている。
荒々しい腕の一振りは、もし命中していたならデビッドに風穴を開けるほどのものだったが、デビッドはその下をかいくぐり、さっき蹴りつけたばかりのやわな腹部へ拳を叩きこんだ。レインが驚愕の息を吐き出し、背を丸めた。デビッドはもう一度拳を振り上げる。レインの顔にパンチが叩き込まれ、拳に歯の感触が響いた。レインは横によろめくと、自分の車のトランクにすがって体を支えた。
「わかったか?」
デビッドは荒い息をつきながら、じんと痛む右手をつかんだ。
もごもごと悪態を呟き、レインは「ふざけんな!」と一言、血とともに吐き捨てた。再び突進してくる。
今度は、デビッドはあまりに近くに立ちすぎていた上に、まだ予想外に機敏だったレインのスピードに虚を突かれた。レインはデビッドの体を両腕で抱え込むや、デビッドを隣の車に投げつけ、その衝撃はデビッドが暗闇に無数の星を見たほどだった。
レインの重みがずしりとデビッドの背中にのしかかって、その息は血の匂いがした。
「俺の人気がうらやましいか?」
レインの囁きと、その息の熱さが、デビッドの耳元にくぐもる。
「躾けてやらなきゃいけないのは、あのドクターじゃなくて貴様の方かもな。貴様はずっと気に食わなかったんだ、クラウス。いつも余計なところに首つっこみやがって」
「俺の美徳のひとつでな」
くいしばった歯の間から、デビッドはそう押し出す。頭を後ろに振り立てると、ガツンと骨の砕ける音がした。突如として息が楽に出来るようになり、レインが後ろへよろめいて、自分の車にぶつかりながら、鼻を押さえた。指の間から血があふれ出す。手をつたう血は、たよりない明かりの下で黒く見えた。
「殺してやる」
レインがくぐもった声で唸った。その息は荒々しい喘鳴のようだった。
デビッドもあえぐ息を吸いながら歯をくいしばった。
「出来るもんならな」
そこに立ち、両手を拳に固め、見せつけて、待つ。やってみろと、言葉そのままに挑んだ。
レインには言葉や価値観は通じない。だが肉体的な暴力ならば、理解する男だ。力こそ正義だと思っている。
長い沈黙が張りつめ、通りすぎる車の音とどこかの玄関が閉まる音が聞こえて、そして消えた。
みぞれ混じりの雨が降り出していた。
やがて、レインは身を返すと、自分の車のドアを開け、窓やハンドルにすがりついて血の痕をなすりつけながら運転席に転がり込んだ。ドアが閉められる前にデビッドが手を置き、中をのぞきこむ。
何か言う前に、頭上で窓が開く音がした。
「警察を呼ぶぞ!」
「勘弁してくれ」
デビッドは口の中で呟いて、上を仰いだ。
「こっちも警察だ!」
怒鳴り返す。窓はバタンと閉まり、デビッドが視線を戻すと、レインはすでに腫れてきた鼻をネクタイで押さえていた。
「言っとくが俺は本気だぞ、レイン」
凍るような雨が首すじをつたい落ちていく。
「貴様の言いたいことはわかったよ」
レインはそう嘲笑を返したが、すでに戦いの気迫は彼から消え失せていた。肩は丸まり、唇は歪んですぼめられている。シャツには血が滴り落ち、ずぶ濡れの白い布地に真紅の花を咲かせていた。負けを潔く認めはしない、そういう男だが、そんなことはデビッドにもどうでもいいことだった。認めてくれれば、それだけでいい。
彼はうなずき返した。
「おとなしくしてろよ」
デビッドが背を起こすと、レインがドアへ手をのばし叩きつけるように閉めた。その音はデビッドの痛みにうずく拳にもしみわたる──ついに決着がついたのだと、一種の勝利感が体を抜けていった。
一歩下がって寒さに襟を立てながら、彼はレインの車が消えて行くのを見送る。それから一瞬だけ長く、頭上の建物を見上げてたたずんだ。
晴れ晴れとした気分だった。生きている、その実感に満ちている。明日が待ち遠しいほどに。
満足げな笑みを浮かべ、デビッドは自分の車に向かうと、帰路についた。
雨はすぐに降りやんだ。だが、それでも翌日は、すべての物に氷がうっすらと膜を張り、交通課は大忙しだった。
その後、雪はまた降ってきた。それでも太陽は力を振り絞り、やわらかな白いかけらが降る向こうから弱々しい光を投げかけて、寒さの棘をやわらげようとしていた。
だが無論、署の駐車場に立って凍りついた車を罵倒している最中のデビッドには、息が楽に出来るぐらい暖かくてよかった、などという感謝の気持ちはかけらもない。彼は白く凍りついた窓を殴りつけ、両手をさすりあわせながら、タイヤを蹴りつけた。
「ムカつく天気だ──」
「乗りますか?」
自分の車に鬱憤を叩きつけるのに一杯いっぱいで、背後にやってきた車の音にまるで気付いていなかった。肩ごしに投げた視線の先で、浅野が、赤いセダンの助手席側に身を傾けてこちらを見ていた。
嫌なところを見られたと、デビッドは顔をしかめる。
「いや、結構」
背を向けて、今度は車のドアを開けようと挑む。
その返事に戻ってきた笑い声に、デビッドの刺々しい気持ちが少々やわらぎ、さらにドクターが「この車の中は少しばかり暑すぎましてね」と続けるに至って、彼は思わず笑いまじりの息をこぼしていた。
自分の車から離れると、デビッドは浅野の車の、開いている窓に腕をのせて車内に垂らす。首を傾けてのぞきこんだ。ドクター自身、車に乗りこんだばかりという姿だった。寒風に肌が赤らみ、頬も紅潮している。右の頬にはうっすらと、もう消えかけている擦過傷があったが、デビッドはそれについて何も聞くつもりはなかった。
「これはこれは。本当に車、持ってたんだな。人の車にタダ乗りしたいだけじゃないかと疑ってたところだよ」
浅野が微笑した。
「車はある、と言いましたよ」
「たしかに聞いた」デビッドはドアの内側を軽くはじいた。「それでこの粋なドライブのお誘いで、俺をどこにつれてってくれるつもりだ? アイスピックが一本あれば俺の車も動くんだが、もしあんたにもっと素敵な計画があるっていうんだったら……」
浅野が笑った。
「本物のコーヒーを飲ませてくれると言ったでしょう。約束を果たしてもらおうかと思いましてね」
デビッドは眉を上げる。
「俺のオゴリじゃなかったか?」
「そうですよ」
ドクターの目にはまだ微笑が宿っている。
「しばらく考えさせてくれ」
ニヤリとして、デビッドは首を振ると、背すじをのばし、晴れてきた空をちらりと見上げた。
笑い声をこぼし、車のドアを開けて中へすべりこむ。
「ちょっと欲張りすぎじゃないか、ドク?」
浅野はまた微笑し、そして今度の笑みは、その下の素顔が透けて見えるほどにくつろいだものだった。
「克哉と呼んでもらってかまいませんが」
「決まりだな」
助手席に身をおさめながら、デビッドの顔にも微笑が浮かんでいた。